少年民謡発祥の地

ビクター少年民謡会の原点である、日本ビクターの築地スタジオについて紹介しています。

少年民謡会誕生の前夜

池田「岡部君、マイク・テストのときのお話しおぼえていますか」

岡部「ひにちは忘れましたけど、民謡の先生のお弟子さんたちが、ビクターでテストをしたときに、いまお休みしている正ちゃん(注ー変声期で休んでいる広瀬一声君のこと)や林さんと一緒についてきたの。そうしたら、ほかのお弟子さんたちがおもしろがって、歌え歌えっていうの、一人じゃはずかしいから正ちゃんや林さんの順番に歌ったの。それで、マイクの前で歌うの初めてだものだから、ブルブルふるえちゃったの」

司会「それから・・・・・・どうしました」

岡部「そうしたら、会社の先生がたが、こどもの民謡っておもしろいから、会社でやってみなさいっていわれたの」”

引用・少年民謡お国自慢


私見

日本ビクター築地スタジオは、ビクター少年民謡会の誕生した場所というだけではなく、『少年民謡』という新たな概念が誕生した場所であるという意味合いでも、意義深い場所であると考えています。

日本ビクターのスタジオは昭和15年(1940年)に築地に開設。しかし大東亜戦争の戦災により灰燼と帰し、昭和22年にようやく再建された。
昭和31年(1956年)にはステレオ吹込みに対応、昭和44年(1969年)には千駄ヶ谷スタジオが開設されたことにより築地でのスタジオ業務は終了し、後に解体される。


工場、スタジオの復旧が遅れて、コロムビアから材料の供給を受け、設備を借りて仕事をしていたころ、のちにヒット曲「港が見える丘」の作詞・作曲者として、ビクターの健在ぶりを天下に示した東辰三が、「ほんとうにビクターはレコードをつくる気があるのか」といって、専属アーチストの決議文をもって工場に乗り込んでくるといった一幕もあった。このとき、当時の今村工場長は「焼けたビクターが不運か、焼けなかったコロムビアが幸運か、もう3年待ってくれ」と苦衷を訴え、共に相擁して泣きながら再建を誓ったのであった。

引用・『日本ビクター50年史』より


画像・『日本ビクター50年史』より

終戦後から、23年〜24年ごろにかけて、社員の給料が遅配、欠配つづきだったときも、当社は専属アーチストの分だけは欠かさぬよう無理算段をつづけていた。これに対して、灰田勝彦は、ガンとして受領を拒み、会社ならびに一般社員と運命を共にすることを誓った。そしてこれに両手をあげて同調したのが、市丸、藤原亮子らビクターはえぬきの歌手たちであった。

当社の今日の基礎は、こうしたビクターを真から愛した人たちの涙ぐましい心意気にささえられて築き上げられたといってよい。

引用・『日本ビクター50年史』より


現在の築地スタジオ跡地のようす

現在の築地スタジオ跡地のようす・令和7年7月19日
現在の築地スタジオ跡地のようす・令和7年7月19日