Interview

この度、令和8年5月5日に、元初代メンバーの小高桂子さんに当時のお話をお伺いしました。この度はこのようなご縁をいただいたことと、機会を用意してくださったご家族の方に感謝申し上げます。


ビクター少年民謡会に入ったきっかけ・・

私「ビクター少年民謡会に入ったきっかけについて教えてください」

桂子さん「ほんとはね私が入る前に、中村よし美ちゃんていたの。私は後から入ったの。こんなこと言っちゃ失礼だけど、レベルがよし美ちゃんが追い付いていなかったのこの子たち(広瀬、岡部、林)に、だから会社としては誰かほしかったわけよ。それで私が大会で、子供の部で優勝したの。でそんときの先生が鈴木正夫(初代)先生で、『あんたね今ね、少年民謡会探してるから、東京築地のところへ行きなさい』と母に言ったらしいの。で、母が連れてったらすぐそこへ入って、次の回からよし美ちゃんが抜けちゃったの」

巡業のはなし・・

桂子さん「雪の降る日に東北で、山上って、向こうから車が来てすれ違う時に、滑って落っこちて、バスごと転落したの。どっち側落っこちら崖だったかな、田んぼの方へ落っこちたのね。
皆まあ助かったんだけども、その頃バンドのドラムとかもバスに載せてたの、で次の公演場所に行かなきゃなんなかったんだけど、とりあえず皆医者いこって、医者に連れてって何でもないか大丈夫かって・・今だったら大変な騒ぎになるんだけど、記事かなんかにね。
次の会場で皆待ってるから違う車用意してもらって行って、で行ったはいいけど、雪でもって電気が来ない、停電なの。だけど会場にはみんな来てるわけ、おじいちゃんおばあちゃんが座布団もって、寒くてしょうがないから。なんとかたどり着いて、消防車のサーチライトで照らして。で楽団さんはね、私たちのためのバンドさんだったから、結構メモリーしている人多いのね、譜面台の上に蝋燭立てて、そんでマイクは通らない、電気来てないから。だから生で、楽団ちょっと抑えてね、生で唄ったの覚えてるわ」

桂子さん「あの頃駅降りるとね、絨毯敷かれたんですよ私たち。新潟、山形、東北、駅降りると、赤い絨毯バーッと敷かれて、駅員さんがこうやって(敬礼して)出迎えてくれたの。そんだけ東北でも人気あったの。どこでも満員だったし。『三橋美智也の時でもこんなにお客来なかった』って興業主の人が言うぐらいだもの。だからもうね、忙しかった」

私「九州の方は行かれましたか?」

桂子さん「行きましたよ。もう全国津々浦々行きました。種子島の方も行ったし、いきましたよ結構。まあどっちかというと民謡が東北の方が多いもんだから、東北ロケが多かったけど、九州も行きましたよ。日帰りで九州から帰ってきて、すぐ北海道行って、北海道から帰ってきて、すぐ九州の方行っててありましたからね。で、その間にレコーディングしてとか」

私「移動は何でされていましたか?」

桂子さん「飛行機で、プロペラ飛行機とか乗ってたから、それで飛行機の機長さんも、ファンで、CAさんが、『あの、少年民謡会のおちびちゃんたち、パイロットの人が呼んでますから、パイロット室へいらっしゃい』来ませんかてなって、操縦席まで。普通だったら入れないじゃない、今思うと。操縦席まで入れてもらって、『うちの機長がファンなんです』そういうのありましたよ」

桂子さん「ビクターって芸能部とか色々あるのね。で、ビクターの芸能部の方へ、地方の巡業かけるひとから電話掛かってくるわけですよ『ビクター少年民謡会を一回使いたいと』ほんでスケジュール組んでくれて、そんでこっちは行くだけ。で、興業主は切符さばいて客を呼べばチャラになるし、チャラ以上に儲かるかもしれないし、一日二回公演だったらね。一日一回公演だったら儲からないけど、二回公演だったらね元取れるでしょう。だから昔はね三回公演とか多かったの」

私「ここに昼夜三回って書いてありますね(少年民謡ショーのチラシを見ながら)」

桂子さん「きっついこれ・・。お昼ごろやって、三時ごろやって、六時ごろにやるんじゃない。そんなに暇はないの。お客入れ替え、ちょっと落ち着いたらやるってかんじ。公演が終わったら楽屋で休憩、お昼・・大したもんないよ、かつ丼とかラーメンとか」

吹込み、普段の練習、学校などのはなし・・

私「築地で録音されたときは、どれぐらいの頻度で行かれていたんですか?」

桂子さん「一か月に一回とか、一、二か月に一回とか行ってましたよ。レコーディングしてましたよ、民謡をね」

私「録音するときは一気に何曲か録音する感じですか?」

桂子さん「ううん、一曲ぐらい。その当時は同時録音でしたので。今は音を先に録って、自分が調子のいい時に音を聞いてレコーディングする。その当時は楽器、バンドさんも歌い手も一緒にレコーディングしたから。パーテーションはあるけど、区切ってあるけど、バンドと歌い手とはね」

筆者「練習はどうされていたんですか?」

桂子さん「練習はね、各々がするんですよ。要するに林恵子ちゃんはお父さんが先生、岡部さんもお父さんが先生でやってたんですよ。で、私も民謡の先生がいる。各々自分で勉強するんですよ。ほんで民謡は、花笠音頭なら花笠音頭って決まってるんですよ。北海盆唄は北海盆唄で決まってるんですよ。ただその人に味があるかとか、郷愁性があるかとか、声が高くていい声だとか、ていう、それだけのはなし。集まって練習しなくても、スタジオに入ると、何となく皆同じになる。だから集まって練習しようなどというのはない」

桂子さん「それで忙しくてね、自分たちの家族より、この子たちと会ってる方が多かったから。だって毎日巡業だのさ、あの・・とにかく忙しかったんですよ。学校も、学校行ったけど、学校の二時間目で帰らしてくださいとか、今日はテレビがあるからとか・・ほんと姉妹みたいだった」

テレビ出演

私「テレビは民放もNHKも両方出演されていたと?」

桂子さん「あの当時ね、生だったからね。でもあれは残っていると思いますよ。初代の林家三平さんとTBSの『麦笛のうた』ってのは残ってると思う。ワンシーズンぐらいやったんだよね、林家三平さんとビクター少年民謡会で。『麦笛のうた』って、全国の民謡を贈るみたいな、そういう番組やってましたね」

広瀬一声について・・

私「広瀬一声さんはやめられた後はどうされたのでしょうか?」

桂子さん「なんかね、医者になったって話は聞いたんだけどね。頭がいい子だったんで。でもあくまで噂だからね、わかんない。色々芸名あったんだよね、小松一声ていうのもあったし、広瀬一声てのもあったし、広瀬(小松)も、でも少年民謡会では広瀬」

岡部幸恵さんにまつわるはなし・・

桂子さん「この人はね、コンクール荒らしなの(岡部幸恵さんの写真を指差しながら)唄っちゃあもう、賞取る。昔でいう丸石の自転車、自転車なんてその頃高価だっただじゃないですか、60年ぐらい前なんか。車一台貰うのと一緒の価値があったのね。で、丸石の自転車のコンクールみたいなのがあったのね。ラジオ番組も一緒だったかわかんないけど、そういうのに出て優勝して、貰ったり(自転車を)したのね、コンクール荒らしだったの。でこの人、島倉千代子(の歌真似)得意なの」

少年民謡会の解散

写真提供:ビクターエンタテイメント
写真提供:ビクターエンタテイメント

桂子さん「うん・・まあ、どんどん成長していって、なんていうんだろ自分・・やっぱりほら年頃になると、短い袢纏を着るのが嫌になる。つるつるてん※の絣を着るのも恥ずかしくなる。それと、民謡は好きだけれども、自分は本当は何が唄いたいのか、結局この本にも書いてあるけど、民謡の方向じゃないんですよね。変わっても演歌歌ってたけど、どっちかって言うとラテン系とか、ジャズとか、そういうのが好きだったんですよ。それで皆、12歳、13歳ってなっていくと、じゃあこの辺で解散しようかと・・。そしたらあの解散って、会社に言ったら、会社の方から『実は紅白の出演ももしかしたらオファーが来るんじゃないかという話が来てんだけど』って、聞いたんだけれども、でもそのころそんな欲はないわけですよ、紅白に出れるなんて。今だったら大変だけど。そんな欲がないし」

※つるつるてん=服の丈が短くて、手足が必要以上に露になっているさま

私「解散は会社の方針ではなくて、桂子さんのほうから決められたと?」

桂子さん「みんなやっぱり年頃だし、あの・・三人で決めようというかんじでした。ずっと三人でやるってことはなかったと思う。

花笠姉妹結成のはなし

私「後に花笠姉妹を結成されますが、それも二人で決めたのですか?」

桂子さん「それも、会社がねやっぱり、『今までの少年民謡会っていう一応ネームバリューは作ってきたから、もったいないじゃないって、ファンもいるんだから、レコードも売れてるんだし、じゃあ桂子さんとさっちゃん(幸恵さん)が仲良いんだから二人でやれば』ってビクターで会議して、『じゃあ二人でやったらどう?恵子ちゃんは恵子ちゃんで一人で沖縄民謡でデビューするんだよ』って、じゃあ私なんかも二人で、仲良いから仲よくやろうかねみたいな。それでビクターの人が週刊明星とか、そういうのに応募を出してくれたの、なんていう名前にしたらいいかってね、そして色々挙がったんだけど、花笠姉妹にしようかって決まったの」

写真提供:小高桂子様
写真提供:小高桂子様

桂子さん「(週刊誌のコピーを見ながら)週刊明星、週刊平凡だよ、この頃にねこういうの出るってのはさ、売れてる人しか出られないんだもん。ていうかやっぱり会社の力もあるわよね、ビクターの。でもほら私たち売れてたからね。一時期会社立て直したぐらい売り上げたんだから、あの民謡で。賞貰ったことあるんですよ、ビクターの。レコードの売り上げ、邦楽の方でなんか貰ったことあるの。だから少年民謡会のネームバリューもあるから、二人でやってみたら、みたいな」

花笠姉妹解散から再デビューのはなし

桂子さん「花笠姉妹の頃は台湾もまわって、その前にもあちこち旅してましたけどね、あちこち行ったり、キャバレーも回ったりしたから、ほいで、わたしそれも嫌になっちゃったのね、もう岡部さんとこのままずっとやるっていうのは本位じゃないなと、それで芸能界小さいころからやってたから嫌だったの、もうやめたかったの。親に乗せられた線路だから、自分でやりたいって言って乗っかった線路じゃないから、だから嫌だったのもう、芸能界は。小さい時からやっててろくに学校も行かないで、それでさっちゃん(幸恵さん)とはね『花笠姉妹これでやめようねって』やめて、ぶらぶらしてて、友達が飲み屋さんやってたから、ちょっと手伝ってた。そしたらそこに電話掛かってきた。『けいちゃん(桂子さん)このデモテープ聴いてくれない?』って。『でも私もう、芸能界やめた人間だし、もうやりたくないし、また歌っても、レコーディングしてまたキャンペーンやるのも嫌だし、散々ちっちゃい頃からあじわってるからもう嫌なんだ』と言ったらその『じゃあもう、声だけでも借して』って言われて、スタジオ行って、レコーディングしたんですよ。そしたらやっぱりそういうわけにいかなくなっちゃって。デモテープ送られてきたのが、『涙の幸せ』だったんですよ。その曲で横浜音楽祭の新人賞貰ったんですよ。それで結局またそっちの方へ(芸能界)行くようになったんですよ」

私「その頃の記事はこれですか?(雑誌記事を見せながら)」 

桂子さん「そうそうこれ、国際劇場でね、国際劇場にね12トントラックを入れて、ここの後ろのところにね(荷台の部分)絵が描いてあって、『あなた忘れの一人旅、小高桂子』てんで、関西方面をねキャンペーン行ったんですよ。『涙の幸せ』、『じょんがら恋歌』、あなた忘れの一人旅で結構、上がってきたの。大阪行ったとき大変だったの、カーブ曲がれなくて・・。運転がサイトウさんっていったかな。サイトウさんていう運転手も一緒に行って、特殊な駐車場に止めて、ホテル取って三日ぐらいいてもらったかな、ほんであっちこっちへ・・。私なんかほら朝起きるとレコード店あいさつ行って、有線放送あいさつ行って、ラジオ局あいさつ行って、ちょっとした番組出て、出ている間にサイトウさんていう運転手さんはトラックでね街をグルグル回ってくれるわけ。で、私もねトラックの横に載って中継、東京の局、『芥川隆行の演歌だヨ!』みたいなのに繋がってて、通り過ぎるとさ、向こうの運転手さんが見たよってやってくれるの」

私「少し話は戻るのですが、花笠姉妹が解散してから、岡部さんがソロで名前が出ているレコードを見かけたのですが?」

桂子さん「うそ、さっちゃん?あの人そういうタイプじゃないんだけどね」

私「岡部さんは解散してすぐやめられたのですか?」

桂子さん「岡部さんはもうね、結構ね、堅いからヤダって言ったらヤダって感じの人だから、やめたらもう絶対だね」

桂子さん「この涙の幸せを、テープ送ってきてくれたのは、岡部幸恵さんの彼氏の友達だったの。ほんで岡部さんの彼氏が私のマネージャーをしてくれたの。だからヤキモチちょっと・・こうなっちゃった(両手の人差し指でバッテンを作りながら)岡部さんが。『勝手に私の彼氏を取ったよな』ってわけじゃないけど、でもね関係ないの。その時その人は結婚してたから。岡部さんの好きだった、〇〇〇〇さんて言うんだけど、既に結婚していた。でも岡部さんは知らないの、結婚してるって事言わなかったから。だから勘違いしていると思う、ずーっとそれは」